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2013年08月19日

掌編小説 「桜の樹の下に」 南 定四郎

掌編小説
桜の樹の下に
              南 定四郎
 滋賀県草津市に嫁いでいる妹の家に泊まったときのことである。
「正月に兄さんの子供が二人揃って泊まりにきたのよ」
「幾つになったのかな」
「上の娘が四十五で下の男の子が四十三だって。兄さんが書いた本があるでしょう?
なんやら言うた」
「『AIDSとともに生きる』だ」
「兄さんの写真が載っていたわ」
「『AIDSキャンドルライト』の写真だ」
「それって、テレビで流れたんでしょう?」
「二十四時間、密着取材ってやつ」
「テレビに兄さんの顔が出て、本が出版されることも紹介されたんだって。隆(息子)
は駅前の本屋で見つけて、お守り替わりにバッグに入れて歩いているそうよ」

 東京都立八王子霊園に私の家の墓がある。 草津で聞いた一件以来、秋の彼岸に私と
二人の子供たちとが墓参をして食事をするのを習わしとしてきた。今年は私の都合で彼
岸前に墓参会をすることにした。
墓参を終えて隆の車で新宿に向かった。新宿駅西口地下の駐車場に車を入れて、昼食の
テーブル席についた。私と娘はワインのボトルを開けて、隆はノン・アルコールを注文
した。皿の料理も残り少なくなった頃、隆が椅子をテーブルに引き寄せて言った。
「お父さんに聞きたいことがあるんだけど」
「うん? 何だ?」
「もう八十一歳になるんでしょう。だから、もしものことがあったら」
「それだ。そのことで相談をしようと思ってお墓参りを前倒しにしたのに、うっかり忘
れて帰るところだった」

 ――草津で聞いたことに心を動かされて隆へ連絡をしたのは四年前のことである。「
夕食でも一緒にしたい」と書いた手紙に電子メールで返信がきた。「小生、社会保険労
務士の資格を取得すべく勉学に励んでおります。今年二回目のチャレンジなのですが、
時間がとれるとすれば日曜日の夕刻でいかがでしょうか」と、あった。新宿で食事をし
た。そのときのことだ。
「私が購入したマンションに二人で住んでいる。彼は私にとってかけがえのない仕事上
のパートナーだ。遺産として不動産のマンションを死因贈与とする遺言書を残した。し
かし、半分の保留分は君たちのものとして相続される。それでは、彼がマンションに安
心して住むことができない。したがって、遺産相続の権利放棄をしてもらいたい」と、
告げた。
二、三日後に電子メールが送信されてきた。
「遺産の相続権放棄は死後に行うもので、生前に行う場合は家庭裁判所に審判の手続き
をしなければなりません。Aさんとかいう、どこの誰か知らない人のために、それほど
のことをする理由が分かりません」

 先ほど、隆が「聞きたいことがあるんだけど」と身をのりだしたとき、私の頭をよぎ
ったのは「遺産相続の件」についての不安だった。あの件の決着を求めるのではないか
。しかし、それは杞憂に過ぎなかった。

 ――かなりの昔になる。隆から「相談をしたいことがあるんだけど」と、電話がかか
ってきたことがある。日時を決めて喫茶店で会った。
「俺、大学の仲間とバンドをやってるんだわ。卒後しても続けたいんだけど。お母さん
が、そういうことなら、あなたのお父さんに相談してみなさい。あのお方は自分の望み
通りに生きてきた人だから、いいアドバイスをすると思うよ、と言うんだ」
 妻とは協議離婚をしていたが、元・妻の言葉は私の胸に刺さった。
「三〇万円を君の銀行口座に振り込もう。サン・フランシスコへ行ってくればいい。あ
の都市にはミュージシャンが大勢いる。彼らを見てから結論を出せばいい」
「何だか分からないけど行ってくるよ」
 帰国の報告をお茶の水のレストランで聞いた。
「俺、音楽の道を諦めることにした」
 サン・フランシスコの夕日を浴びて銀行の階段下にギターをかき鳴らして歌っている
老人がいた。毎日、老人の歌を聞きに通った。明日は帰国するという夕暮れ、老人の歌
が終ったときに質問をしてみた。
「どうして、路上で歌っているんですか?」
「アイ・ライク・ミュージック」私は音楽が好きだ、と明快に答えた。
「俺は路上で歌う生活を覚悟できるだろうか? と、思った。出来そうもない」

たった今、隆が発した質問に答えなければならない。数秒間の戸惑いに過ぎなかったろ
う。回想の寄り道から現実に戻った。
「私は体調の都合で沖縄へ移住して三年三ヶ月になる。隆のメールに書いてあったA氏
は六十一歳になる。三十五年間、この人と生活をともにしてきた。私の死後は彼が始末
する。費用として一〇〇万円を寄せてある。葬儀の喪主は隆になってもらいたい。A氏
は友人代表として名を連ねる。遺骨は東京のお墓に埋葬してもらいたい。少々の灰をA
氏に渡してほしい。沖縄の庭に桜の樹を植えてある。その根元に灰を埋めたい、と彼が
希望しているのだ」
「俺、葬式の保険に入らなければいけないのか、と思ってさ」
 安心したのであろう。隆は席を立ち、風を切るようにして去ったのである。



Posted by 霓 at 10:41